戦災 孤児。 「親と一緒に死ねばよかったのに」戦災孤児がいまも抱く哀しい記憶(栗原 俊雄)

WEB特集 戦後75年 母と信じた人は別人だった

しかし、きょうだいとともに、飢え死にする恐怖におびえる日々を送った経験は、みじめな記憶として、長年、金子さんを苦しめた。 当時の施設の記録には、長期の路上生活が子どもの体をむしばんでいた様子が記されていた。 20代のころに、当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか、問い合わせました。 お母さんとお父さんがいたらなあと、毎日思わない日はなかったです。

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「駅の子」 生きるために闘い続けた戦争孤児

それまで思い出したくもなかったし、周りや家族にも伝えていませんでした」 そう語るのは、東京・荒川区に住む星野光世さん。 私は会うとすぐに「お父さんもお母さんも、兄さんも妹たちも、なぜ死ななないといけなかったの?」と泣きじゃくりました。 」(愛児の家のスタッフ) 13歳の女の子の記録には、「梅毒第3期」の文字。 涙を浮かべながら、私の腕の中で息絶えました。

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「親と一緒に死ねばよかったのに」戦災孤児がいまも抱く哀しい記憶(栗原 俊雄)

昼も夜も爆弾が降り注ぎ、辺りは煙で見えなくなりました。 」と怒鳴ったのだが、黙ってうなだれている3人を見て、逃げてきたと察し、その場に泣き崩れた。 空襲で燃えたんじゃありません。 28歳のとき、家具職人の男性と知り合い結婚、子どもにも恵まれた。 本当に忘れてしまいたい、辛い記憶ですよ……」 終戦直後に遭遇した謎の紳士と、その後に生まれた悲劇についてそう語るのは、自らも戦火により家も家族も失った経験を持つという平塚勝道さん 仮名・77。 3歳だった妹は「大きくなったらお菓子屋さんになる」と笑顔で話していました。 (池田進一) 「孤児にとっての戦争は戦後に始まった」。

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餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活(石井 光太)

昭和2 3年2月1日に厚生省が発表した全国孤児一斉調査によると、12 3,511人もの孤児が生じていたことがわかる。 2019年に吉川英治文化賞受賞。

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【戦後70年】毎日のように誰かが餓死…京都「戦災孤児寮出身者」が振り返る〝孤児の戦争〟(1/3ページ)

不潔だ、不良だと白い目でみられた。 私はそう思っています。 つまり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きしていたことになる。 敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人にのぼったといわれている。

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「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <上> 広島戦災児育成所

残されたのは11歳の光世さんと8歳の妹と4歳の弟。 だが、それは決して、 歴史的な重要人物の名前を覚えたり、 事件の発生した年号を覚えたりすることではない。 東京大空襲で母と姉妹を失い孤児となる。 公園で暮らした2000人の孤児 知られていないといえば、戦災孤児も同様である。 警察などはこれらの子どもを「浮浪児」と読んだ。 光世さんは危険を感じ取ったという。

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「親と一緒に死ねばよかったのに」戦災孤児がいまも抱く哀しい記憶(栗原 俊雄)

ある日、隣村に住む叔父が光世さんたちを迎えに来た。 背中を触ってくれる人なんかいなかった。 せめて義務教育が終わるまで、国の責任で養育すべきでした。 朝日年鑑によるとそのような孤児は3,5万人にものぼるという。 『新修港区史』(79年)には「全国でその数およそ四〇〇〇といわれた浮浪児は、ここ港区にも芝浦の倉庫を中心に、当時つねに八十余名がたむろしていた。 金子さんは、弟と妹の預け先を必死で探し回り、自らは住み込みで働くことにした。 この5月で、75歳後期高齢者になりますが実母に感謝しながら、実母の分も戦争が残酷で悲惨なことだと言い続け、もう少し生きていきたいと思っています」. 子どもの人数に応じた運営費が、児童養護施設に配布される仕組みが整備され、次第に状況は改善されていった。

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【戦争を知らないあなたへ】11歳で突然、戦争孤児に…家族にも言えず生き延びた

7~10歳が7割近くを占めていた。

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